20120408

サザエさん症候群絶賛発症中で、こんな時間まで起きている…
いつものパターンだな。
だって寝たら朝になっちゃうからなー…orz

とはいえ、日曜日に『愛する人に。』が届き、
一読してからこの半年のことについて考え事モード。

以下、考えの途中経過メモ。


この半年は「祭り」だったんだと思う。
思いを伝えるまで、半年お祭りが続いていたようなもので、
おみこし担いで「好きだー」と走り回っていたのだろう。

一人でおみこしを担ぐことも、そのまま祭りを続けることも、エネルギーが要る。
好きだという気持ちひとつで、半年いろんな壁を壊しながら
奴に向かって突き進んできたことは自分でもすごいと思う。

ただそれはどこか独りよがりな突き抜け方だったのかもしれない。
走っている時には見えてなかったし、
正しい方向に走っていたと信じていたけれど。

今だから思う。
私は何の壁を突き破っていたんだろう?

半年前も、半年後も、私の目には「素敵な笑顔」しか見えていなかった。
良くも悪くも揺るぎなく、好きでい続けた。
ただ奴が笑ってくれるなら、何だってできた。

その気持ちだけでいろんな壁を突き抜けてきた。
でもそれは「自分の壁」を壊してきたのであって、
「2人の間の壁」ではなかったんじゃないか?

自分の中のコンプレックスを少しずつ克服した。
なりたい自分に少しずつ近づいた。
努力を惜しまず、自分を磨いた。
それはとてもいいことだし、確かに頑張った。

だけど、奴との距離を縮める壁はどうだろう?
キャッチボールするのに邪魔な壁は取り払えていなかった。

多分私はどこかで自分の中の壁を取り払うことで、
(例え直接的に「2人の壁」を壊せなくても)「奴との壁」が消えると思っていたのだ。
でも、現実は「自分の中の壁」と「奴との壁」はリンクしない。
そのことを「見ていなかった」のではないか。

『人はみな望む答えだけを
聞けるまで尋ね続けてしまうものだから』
吉田拓郎は歌っているけれど、私だってそうなのだろう。
人は見たいものを見たいように見て、聞きたいことを聞きたいように聞く。

一方で、別件で追いつめられた時に隊長や仲良しの守衛さんに救いを求めたのは、
奴を介して壁が壊せていて、キャッチボールする相手が見えていたのだ。
半年で、たくさんキャッチボールができていたのだ。
奴のおかげで、かけがえのない関係を築けた。
キャッチボールをする中でいろんなことを学び、気づいている。
それはそれで感謝してもしきれない。

半年に後悔はないし、結果的には奴との壁は壊せなかったけれど、
「そもそも見えるところでキャッチボールできていない相手と、
壁を超えてボールは届かない」ことはよく分かった。
「好き」という推進力さえあれば、
いざとなれば壁を突き抜けてボールは届く、と思っていたけれど、
それは「見たいものしか見ていなかった」のだと思う。
推進力の強さで確かにボールは遠くまで投げられるけれど、
壁があるので距離が全く分からないまま投げざるを得ない。
やはりキャッチ率は低くなる。

そんなことを考えた。